教育小説私の先生
上
「何も妻が止めようが、母が止めようが、此の心は最うとほに決して居る、青雲の志を抱いて、此の土臭い山奥に何で、ひつ込んで居らう、居られないいや考へて見れば、母が言うのも道理た。妻も可愛い…併しこれで何で老木と朽ち得られるであらうか、枝長も思止まるぺく歓告してくれる、だが此の心がそれでは満足せぬ、よし今日は屹度校長に答へやう」
机の上に頼杖ついて居た。吉河操。がつくり頭を起して、机をたたき、身を斜に一揺り揺つて、立ちかけた。年齢二十四五の若人、色浅黒い顔にも、澄んだ黒味勝ちの眼と、顔の何処となく愛橋のあるは、生徒の受も好ささう。
「今朝はいかに早いの、末だ六時…おゝ七時に五分もあるよおほゝヽ昨日の返事を聞き度いと思つて喃…。
襖を啓けて這一道入つたは操の母静枝。四十の坂を五はかりも越して居るかのよう黒い艶々しい髪にも一二本の置く霜。
愛らしい目元に笑を含んで居る。操は立ちかけて居る腰を下ろして、敷いてゐた自分の布団を母に譲り乍ら、
「はい近頃ば仕事が澤山ございますので朝なりと早く行つて事務を執らうと思ひまして。
苦しい徴笑に紛らして、母の気配如何にと窺ふた。
「ほヽゝ逃げ仕度に仕事を済すのかい…」
「はゝゝゝ中々おつ母さん皮肉ですな。いや最う近頃は実際に事務が多いので困ります」
操は左分に分けて居た頭を掻いて首垂れた。
「な操少たァ妾の心も察してお呉れ、おとうさんは、お前がちいさな時亡くなつてしまつて妾一つ手に育たお前、師範学校を卒業して漸う安心したのもつかの間で最う孫の一人も設けて…それも妾の心ぱかりで、お前が亦いろんな言をお言ひだから妾…怎うしやうかと思ふて居る。それ計りか花…花が可愛いわお前の卒業を心待ちに二十一の春まで他所へも行かずお前に心尽して居るのぢやそれも察してお呉れでないと妾…此の大きな家を女ぱかりの世帯では困るのぢやそれや是や思つてな今度丈は操、思ひ止つてお呉れでないかヘ…」
女心の母親、涙にもろいはその情、早や涙ぐんで操の返事如何にと操の頼の邊りを見入つて居た。情にはもろいが人の常併し操の決心は怎うしても動かされぬのできつ度首垂れた顔を上げたその顔には動かされぬ決心の色がほの見えて居る。
「おつ母さん私が今度の考は実は二三度も考へた末、決心しましたのです。年とつたお母さんにご苦労を掛けては私の心に、恥ぢます。然しそれも茲二三年の間と思つておつ母さんも我まんして下さい…。
操は決心の程を打明けて母の顔色如何にと見入つた。折りも襖の彼方に妻の、花子の声。
「只今落合さんがお誘にお出になりました。
* * *
「君−君も我が母党の一人だな。親友の誼もあつたものではない何故僕の母にも理非を説き聞かして呉れんのだ。思ひ止れ、よせつたァ、僕親友甲斐もないと思ふ。今通路の途中操は概友…竹馬の友と同校に教鞭を執り毎日々々談しつヽ通ふので、時には詩を論じ歌を誦し小説の評一として話の材料とならぬはない今も彼が此度のことについて論じつゝあるのだ。友は彼の答に亦口を開いた。「いや君の決心も感ずぺしだ。否それ処ではない僕は賛成する。然し一歩退いて考へて見給へ最愛の妻老いたる母を残して南船北馬君が旅の空に数年も居て見給へどうして家が立つて行く?君も僕が崇敬する兄として僕のこの意見を容れて呉れ給はんか、それのみか君が笈を負ふ時僕と校の柳の下で怎麼に言つて泣いた。よもや君も忘れはすまいな。
「……」
操は答もなくて活歩する。
「これでも君は前説を主張しやうとするか…。
「いや君、君の話も領解した。然し僕は思ふ。今の悲は未来の笑ひの種を播くのだ。妻も待ち序に今二三年我慢して呉れれば近き将来に於てスヰットホームに面白い夢を見ることもあると思ふさな君僕の心中を察して呉れ給はんねえ……。」
操の決心は動かし難いと覚つた。友の落合は最後の確答を求むぺく操の額と見入つて
「古河君−怎うしてもか
「無論さ
と古河は平気にその友を見かへつて愛矯ある目に決心の程を見せた。
「うむさうか僕は君を否君の今の意見を翻へすぺき一つの術を特つてゐるが君これでも落城せんか怎うだ
「えヽ術?どんな術だ。
不可解の目に友を迎へた。此の時早や校門に近いた。門前には一人の愛らしい垂髪の女の子問へ顔に愛くらしい眼で待つて居る。
友は校門を指した
「古河…君は、あれを見ても今度の行を決行するか見給へ早君を迎へて居るではないか
言う間もなく四五間駈けて来た。愛らしい九つ計りなる乙女
「先生……
洋服の古河にすがりついた。
「あれあれでは彼もたまるまい
友は独言地た。(未完)