教育小説私の先生(承前)
中
晨に花を賞し、タに暮色の艶麗を誇つて居た、春の色、漸うあせて、若葉の葉陰涼う天地はもう、雲煙靉靆たる春の衣をぬぎ捨てつ、夏衣に着かふるの頃となつた。
日脚の長い夏の日も早西に傾いて、落日の色紅う、古河家の奥庭の植込の中を透して、今を名残りと射出す一道の余光バツト障子を照せば
「おヽ、夕陽その黄金色の美さ、今日一際艶なるを覚ゆるかなだ、我が前途もタ陽ではないがかくの如くあらんことを祈るのだ」
書斎の障子を啓けて、かう独言地た操、タ栄の色を眺め遺りその美くしい景に憧憬れて、自失したかの如く恍惚?!
今、彼は空想の花野を分けて、それからそれへと想を回ぐらし、彼が今度の行について、ホームを破り、一家悲惨の状態に沈落するといふようなことには、考へ到らぬ所で、只もう未来に一つの成功を夢見つヽ、希望、成功は彼が心裏の領なのである。
「浮世の中は、例へば大海のそれだ。大波小波、揺らぎ揺いで、大海原中を分けかく木葉船を揺り上げ揺り下ろす如くだ。そこに波乱ありそこに急瀑ありで、人生不如意矣を叫ばしむるに至るのだ。然し、それら波乱、それら急瀑、人生行絡の一宿駅たるのみだ、五尺の身躯に何かあらん、波乱の裏面に沈滞あり、困難、そこに平安の光を認めるではないか、よし人生の快事は、それ其処にあるのだ。母、校長も落合兄も思ひ止まるペく言つて呉れる。今日の返事に校長は怎麼思つて居るだらう、僕は何でこんな快事を他所に見て居られるものかはだ!!
彼は、この意気を以て、浮世の波乱と戦ひ、困難と戦ふの勇気をもつて居る。それは啻に口先きのみではなからうが、今は彼も希望に燃ゆる霊火のみ盛であつて、押へがたなのである。夕陽の色、やうやう簿らぎ黄金色の雲も影を止めず。西の方に灰色の綿のような雲が二片三片、タ鴉は塒求むべく東へき渡る。
微笑み多き愛嬌ある操、希望、成功の空想を画きづヽ散歩すべく帽を項いて門を出た。
静かに家の前の、圃道を南に青葉したたる、木の下路を過ぎつてしばらく、そこを折れて、こんもりと茂つた。鎮守の森の方に歩を運んだ。鎮守の森、彼が尤も親しく、その最愛する所で、苦痛あり、煩悶あるとき、否そればかりでない彼は散歩する度にここを彷徨ふのである。
その神々しく、その神聖にして静かなのを彼は好むのであらう。
考杉古松、森然として雲に聳え、さびた宮居は、タ陽のうすれ行くにつれて、淋さを増すのである。
操は神前に黙礼して、石階を上り神殿に腰を下ろして独言地た。
この森こそ僕が幼な染馴だ。散歩のときの語り相手なのだ。近き将来に袂を分つと思へぱ、何やら別れ難なの心地がするそこが人間の弱点なのだはヽヽ」
彼はこの寂寞たる所に独り亦空想に沈んて居る。抜りしも彼の耳朶を衝いたのは、優さしい唱歌の音である。
王の宮居は丸のうち 近き日比谷に集まれる
電車の道は十丈字 先づ上野へと遊ばんか
電車唱歌の一節、緩急面白ろく、低く、高く、微に寂寞を破つて、聞える声は、刻一刻、明瞭の度を増して来る、確かに女の予の声である。
耳練けた操
「はて、あれは美いちやんの声だな、それにして、この晩どうしとるのか知ら……
歌は益々明瞭に、歩一歩その主は近づくのである。
下
「先生、其所に入らつしやつたの。私いくら探がしたか分りまぜんわ……」
荒らい紺飛白の着物に少さな帯を後に可愛らしく結んだ。丸顔の鈴のような黒味勝の眼、下げ髪の優さしいの、姓は本多名は美母子。九つ計りである
「おつ美いちやんかい。先生は退窟なもんだから、ここで遊んで居るのさ、おつ母さんは、心配しなくつて……。」
駈けて来た美津子、軽く神を拝んで、石階を上つた。そして操の腰によりかヽつた。彼は軽く抱き上げて、その肉つきのよい頬に接吻した。
「先生、私夕飯を食ぺて了つたの。先生とこに行きますつて言ひましたら、お母さんうなづいたのよ。」
操の顔見上げて、嫣然笑つた。
「さう早いのね」
右手で美いちやんア下髪を弄んだ。美いちやんは何か思ひ浮んだかのよう、
「先生ッ」
「どうしたい、美いちやん」
「先生。え、よさう妾嘘だと思ふわ、吃度と嘘だわ、愛子さんなんか。妾ばつかりからかうから……」
何だか躊躇ふもののようであつた。
「よさなくつて。言つてご覧よ、愛子さんが怎うかしたかい
「え、ぢやァないのです。愛子さんが今日学校でな、古河先生は、束京に勉強に入らつしやるのつて言つたんです。先生真実ですの……」
「真実だ。嘘ぢやないのよ美ちやん
「え、先生嘘ぢやないの
「うむ……」
軽く首肯のであつた。美津子は、今日学校からかへると今のさきまで、泣いて居たのであつた。まだ嘘実かわからないので、今真否をただすぺく、操を訪ふたのであるが、事の実なることを聞いては、美津子泣かずに居られない、操の膝に涙の種も尽きよと計り泣き入るのである。
彼はかほどまでとは思はなかつた。而も事の意外なので自分の正直であつたことをくひたが詮術もない
「美いちやん、さうお泣きでないよ、今言つたのは、串談なの美いちやんのような可愛い子があるんだもの、東京なんかに行くものかな、よおやめ、
「先生いやよ、嘘ばつかり」
よヽと泣きくづる美津子の背を撫でながら、猶も慰諭るのである。
「や、美いちやん、よし先生が東京に行つてもさ、すぐ戻るのさう美ちやんが尋常を卒業して、高等にお入学の頃には、帰へるの、東京へいたら、面白い絵本や、すきな唱歌なんかたく山送るよ、美いちやんも、手紙をくりようね
美津子は頭を振つて
「いやよ、絵本や唱歌帖なんかいらないの、先生が一番すきなの……」
恋ひ慕ふ幼子には、絵本や唱歌帖など、物質の寄贈よりは、思師の精神的愛情を慕ふのである。美津子のかヽる師を持つが幸か、かヽる愛深き生徒を持つて居る教師の幸か、
操は、今、二途に迷ふた。無言のまヽ、此愛らしい美津子いとしい教子、愛の権化とばかり思ふ美津子を抱きしめて
「美いさん」
「先生……」
目と目に宿すは露の玉
日は何日の間にか暮れて、さびた社殿の寂寞、亦、一層である。後の森の木から、羽音を立てゝ、梟の一羽
十三夜の月は、嵯峨山の項に上つて、碧空千里澄み渡る空を西から東へ流星一つ?
* * *
次の日操は、登校の途中、美津子の母に蓬つた。所が美津子は、夕夜通し泣き明した、そして絶えず「私の先生」とばかり言ひつヾけて、今朝に成つてすやすや、と寝入つて居るといふことを聞いた。そして彼は考へた。愛と名誉を比較した
併し愛の大に及ばない、貨財、構威、官爵、はた如何なる者も愛より以下のものであるといふことを知つた、
だから最う昨日の主義!希望も何処へか影を消して、只もう献身的に教育事業を勤めんといふ犠牲的精神を起し、母にも妻にも安心させた。校長の喜びは此の上もない、この操の精神こそ愛の大なるものである。
美ちやんの喜びは、どうであらう。余は操、美津手の健全を祝し居るものである。これを聞いて、独微笑だのは、友の落合その人であつた。(完)