女教師


三浦圭三




ふけゆく夜半の、夢さめて、 丈にも余る黒髪の、
乱れ乱るゝ妾こゝろ     あゝいかなれば悩めるぞ。
妾生れて十八年、      浮世の風に当たらねど、
とこよの波に漂泊ひて、   教てふ職とりにけり。
過去思へばあなうたて、   至難至重の業なれば
寸に進みて尺に退き、    嘲笑の恥幾十回。
今朝教案に筆を擲げ     今訓練に手をおきて、
ひるよる心くだけども   くだくかひなき身のおろか。
悪気無子のいかなれば    重き笘の罰やうやう、
されども哀れこを救ふ、   救ひの道は妾知らず。
法とよ名とよ職務とよ、   稚児の手足束縛し、
口はあれども云はしめず、 手は揃えどもなさしめず。

妾不肖の身を稟けて、    この教職に足を入れ、
星霜ここに幾とたび、    春秋去来また数たび。
桜桃えむ春の朝、      紅葉ちりしく秋の暮、
人遊興の糖吸へど、     妾はそれも忘れたり。
緑滴る夏の山、       雪ふりつもる冬の庭、
仙女恋愛の蜜吸へど、    妾それをも忘れたり。
我が舎といへど三間に、   四間のせまき教室を、
唯あけくれの家として、   諸々の課業なしつるよ。
我が子といはゞ六十に、   三人のいとし生徒等を、
唯あけくれの友として、   諸々の課業教へしよ。
校の事務も煩瑣、      同僚の排評も物うしゝ、
されどもされど其批評、   所詮は若かじ妾理想に、
遊興の糖何物ぞ、      恋愛の蜜何物ぞ、
泡沫夢幻唯一時、      瞬時の快に耽るのみ。
理想の島にあくがれて、   教職の船にさほさゝば、
波濤の難に漂ふも、    いつかはつかんつかでやは。
かくは思へどさはいへど、  人の心は空かける、
浮雲のごとくフワフワと、  定めなければ亦かはる。
其かはる毎この妾を、    地下より起し光明の、
理想の空を見上ぐべく、  喚ぶ醒ませしは誰そやたぞ、
西も東も知らぬ稚子、    心つくしし甲斐ありて、
一の読本卒業て、      十の計算たしかなり。
礼も作法も知らぬ子が、   心つくしし甲斐ありて、
朝晩の挨拶まめやかに、   長幼の序も弁へぬ。
稚子はまだしき苗なれば、 つちかふ人の尽力しだいに、
よきにあしきに様々の、   花も開かんみもみのらん。
稚児はまだしき紙なれば、 色どる人の画筆しだいに、
くろにみどりにとりどりの、 彩をなさんあな嬉し。
稚子はまだしき人なれば、  罪を自覚ず悪識らず、
其微笑は幾万の、      黄金も玉も及ばじな、
此教理知りしより、     妾心に誓ひたり、
人生僅か五十年、     若かじ此職に終へんには。

今流俗の徳頽れ、      言と心と行と、
三つ三色となりぬれば、   人の心は飛鳥川。
昨日の淵も今は瀬や、    紙より薄き其情、
水より淡き其誼、      噫何として救ふべき。
さればゴツドの胸さけて、  色あるものに凋落の、
形あるものに揺落の、    霜と嵐をなげうつよ、
若草もゆる春の野の、    其面影や今いずこ、
春はやがてもかへらなん、 人のよとはにすたるとも。
妾教職にさすらへて、    天の授けし重務をば、
身をこなにして全ふし、   浮世を春に回さなん。
さらばゴツドの胸笑みて、  色あるものに艶麗の、
形あるものに玲瓏の、    花と霞を賜はらん。
さめては夢み夢みては、   さめて夢みて又さめつ、
かくと思ひつかく定め、   起きふしあはれ幾星霜。
汚れし廃世すてつれど、   思はぬ人に想はれて、
資産よ地位よ権勢と、    ときめく欲も起れりき。
されど残の月淡き、     暁がたに教職を、
除きて妾の職なしと、    理想のささやき此なりき。
衆人獣欲の奴となりて、   衆物小人の有に帰し、
生存の巷は賑はへど、    妾はそれを低うみて、
此校舎に冬籠り、     いとし子たちをおほしたて、
稚子に花さく春きなば、  そをたのしみにいそしまん。
人金銭の奴となりて、    西に東に狂ほへど、
妾は鞭の主となり、     人子に正義を指さん。
俯仰天地にはずるなく、   沈思良心に曇りなき、
スクールライフ此こそは、  妾が理想のほのふなれ。

おはり


最初のホームページへ