政子


埼玉 ン洲散史



「あゝ疲労た、今日のように疲労たことはないな君!
「さうさう、併し今日の天気は、当に天佑敢だつたね、競技中降雨らず照らず、而も今になつて、此様雨が降つて来るとは。
 など、打談らひつゝ、清き葛西の流に沿ふた、数奇なる、旗亭の障子を押し開き、薄暮瀟々たる春雨に酌む十有余人、美髯あり、疎髯あり、豊頬、神系質、紋付、ハイカラ、パンカラ?、竹林の仙もまさに、三舎を避くべしとぞおぽえし。
 こはこれ、今し春李運動会を終了た、わが校の職員が、この日の疲労を慰籍すベく、此処に酌み交すのであつた、無論僕も此席末を汚し得たのである。
 間もなく、素黒の、夜の几帳は、深く深く此の世を閉し、煌々たる加斯燈は、まばゆさ迄、この席をてらし酒まさに酣、怪弁は漸く、ここそこに、稍々色めき洩たるとき、のの字を書く頭もチラホラ見えし。
 と、見て取た、女将の気転にて、何処よるとは知らず、三味線左手の異様の天女、降下り在せぱ、一座の勇気は頓に百倍の疲労は疾々何処へかさりぬ。
 呻る都々一、葉唄、手許おかしき皿廻しに、ヤンヤの喝采を得て、いとど高きお獅子鼻を蠢めかす洋服あれば、徳利起しの不成功に小頸を捻る美髯もあつて、こ々暫時、興は泉の如くわくのであつた。
 折柄、帯もしどろに、遷然として危げなる、妙齢の酔う美人あり、ほつれたる髪の毛を、細き、白き指もて掲げつゝ、朦朧たる酔眼、座中に一睥を与へ、さるハイカラの前に、蓮歩を運ぶと見るや、其身を抛るが如く、ベたりと座しぬ。
「チョイト、檀那!お一つ頂戴な、好いでせう?そしてからお酌しますわ、…イヤニ舌つたるい」、…ハイカラはツト、盃を彼女の前に置けば、彼女はカプリを振て、更に、「旦那、ヒドイワ、そちらを頂戴なね」、…とにつこり、秋波目にハイカラを見て、膳の上の大なる、ビーヤ呑に彼女の艶なる食指を示すのであつた、そして、黄金の色の凸となつて、溢れんばかり、一杯々々又一杯、長鯨の波を吸ふが如く、煽りつけた、
「ゲーイッ、チョイト旦那!ほんとに好い心地てすわ、一つ唄ひませうか?
 不敵にも、傍若無人にも、彼女は、十有余人の大の男子を、前に置いて、あたり関はず、手拍子も、しどろもどろ、三味に合して唄ひ出しだのである。
 席末=加斯の光明り稍々遠き処に、これを見た僕は、目遠いな夜目に、それとわかねど、何時とは知らず、この酔美人の顔が曾て一度、僕の脳裡に、深き印象を刻んだことが、あると思はるヽのであつた、しかし、それが誰で、亦何処でもあるかは、暫時、考たが、杳として只々辿るベき記憶の途を知らなんだ、そこで、隣席の疎髯先生に、私語たが、ヤハリ知らぬとの返辞、とはいひ、彼女のフェースは確に僕の脳裡にあるものを、何としてこのまゝに過さるベき、禁ずベからざる、僕の好奇心は、彼女の唄ひ終るを待つて、一盞を彼女に贈り、そして、短刀直入、自ら彼女に問はんとの、甚しき窮策を余儀なくすべき、はめとならしめた、しかし僕は私に、この策を危んだ恐らく、此無枠なる迷案が、成功するだろーかと。
 で、僕は彼女が唄ひ終ると同時に「オイ姐さん!たいそう、お上手だね、まあ一つあげ様」、と例の大きいのを取つて彼女に差した、彼女はアリー、てなどゝいつて、斜に彼女の細腰を揺り、僕のさしたコップに手を掛けながら、とろんとした、愛嬌ある、酔の眼に、ツクヅク、僕を見たが、彼女の酔にほてる紅の頬は此時!此時、見る見る青ざめて、コップを持つ手は甚しき震慴を示し、遂に何等か此座に得堪ぬ事のあるかの様、其コップを落す様に畳へおいてツト立つた。
 スハ見ん事仕揖じたりと、胸に波打たす一刹那、「政チャンー政チャン!何処へ?とあはたヾしく呼びかけたのは、三味の天女でありし「イー工」、靄昧なる返辞、細く震ひを帯びし、かすけき声を残して、彼女は転ぶが如く出でさるのであつた、政チャン!!此瞬間、僕は実に、実に強き電気に搏たれたらん様、そしてある驚きを以て僕は、僕自身の口唇の、引きしまるやう感じ得た、無論此時、僕の確なる記憶は呼び生けられたのであつた、嗚呼政チャン!!
 僕が某の地に、始めて教鞭を執たとき、その受持であつた尋常科四年に、村の助役某の愛娘、小林政子と呼ぶのがあつた、が今の彼女は、実に其女であるのだ。
 僕は当時、常に同僚に、其政子の顛才を称揚した、のみならず、自らも此様思つた、僕が将来のホームには、かゝる才媛を要求すると、して彼女は、なかなかの美人でもあつた。
 彼女が尋常科を卒業して、間もなく僕は、此地へ転任、以来烏兎早々、もはや七年を過しぬ、其間友入などから、ワイフをと薦めらるゝときは=恋ふたといふではないかそのコントラストを求めて=何時も政子の事を思ひ出すのであつた。
 が、彼女は其後、何処に如何して居つたのだろー?そして如何して此地へ、漂浪へ来たのであろー?たとへ、彼女の母は、かねて、継々しいとは聞いたが。
 嗚呼また、僕は曾て、彼女を如何に教たのてあつたろー?


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