疑惑 下


早稲田 藪白明



下 求婚状
不二夫と花子と、乳母親子とは、亡き女主人を追想して、しめやかなる物語をつづけた。火影のまたゝきも温かい香のして、仏壇からなびく香の煙もたゆたひつゝ、それが如何にも、自分の子供が和ぎの中に、静かに弔らひに耽るを、嬉し見るかの如くも見える。
「お父さんもお母さんも、みんなもう、仏になつておしまいなすつて、兪々あとに残るのは、兄妹二人になつしやつたねえ、ねえ乳母、僕はまた田舎に行んだ、来春にもなつたら、花ちやんと行くんだが、お衣も一しよに行つて貰つても宜いだらう?田舎つて言つても、姫路だから近いよ、乳母が用事があつても、お衣の用があつても、来もし行きもすることが出来るから、ねえ」
「えーもうー、何卒何処へでも、でも一向御用に立ちませいで、十六七にもなりますのに、這 ぢやまつたく仕様もムいませんが」
とお衣の母は微笑みながら、お衣を見た。
「兄さん!姫路に行つたら、何ぢやないの、あの女学校がないわ」
「女学校かい、あるともさ、姫路ぢやないかねえ、市だよ、田舎つて言つても…大丈夫だ。姉さんとこにゐても宜いんだが、僕と一しよにお出でよ、花ちやんのお友達が沢山ゐるよ、毎日来るわ遊びに…」
「大きい人ぢやなくて?あたし何だか羞かしいわ」
「何だつて羞しいものか、やつぱり花ちやんと同じ位の年のものさ、男でも女でも、高等四年だもの、でもさうだ、来年は卒業だねえ、それでも、幾らもちがいはしないんだから…」
「あの旦那様!あちらへゐらつしやいましたら、やつぱり何でムいますか、お家をおこしてらへなさいますのでムいましか」
「いや借るんだよ、小ちやい家を…」
「而うしてお二人つきりで…」
「あゝ、二人でなくつて、誰も外にゐやしないぢやないかねえ、それにお衣とで三人だ」
「恁まうしましたら何でムいますが奥様をお迎へ遊ばすとかお仰いましてすが…」
「誰が?細君なんかこさへて怎するものか、誰が那麼こと言つた?」
「いや、あの中町の奥様が、先達ておつしやいましたぢやムいませんか」
「姉さんがねえ、あれなんざ一寸言つて見たんだらう」
「いや中町の奥様も左様お仰いましてすが、おふくろさまもゐらしやらなくつては、何でムいますよ、いろいろ御不自由でムいますよ」
「お母さんがおなくなりなすつたからつて、みんな言ふけれど、何も那様に急がないことさ、僕はまだ子供ぢやないかねえ」
 不二夫と乳母との話を、花子とお衣とは、黙つて聞てゐた。
「ねえ花ちやん、是から何でもするんですよ、着物なんか、縫いにやれば、何世話はないさ」
「あたし何でもしてあげるわ、でもねえ、兄さん、お嫁さま貰うのが宜いつて、お叔母さんでも、姉さんでも言てたわ、そしたらあたしの姉さんねえ、毎日姉さんと遊んでてよ」
「何を言ふんだよ、つまらない、毎日遊んでゐて怎おしだい、学校に行かなけりやならないのに…」
「学校から帰つてからだわ」
「而し、いくらお嫁さんが来ても、さう遊ばれちや、やかましくつて仕様がないから、もう呼ぶのは止さう」
と、互いに笑ひながら、茶をすするのである。
「おほゝ、お止しなさいよ、怎したつて来んだから、あのよし子さんが来るわ、それでも這麼に、煙草でくすべられちや、帰つておしまいなさるかも知れないわ」
と言て紫煙朦朧たる室を仰いだ。その時お衣は
「ほんとうに大した煙ですこと、わたしも気が付きませんでしたよ、お母さんまで、つゞけざまのんでるのだもの」
と一寸、中庭に面した方の、障子をすかせた。
「馬鹿なこと言ふんぢやないよ、よし子さんなんか」
「兄さん嫌い?」
「いや何ともない、すきでもきらいでも…」
「それぢや何ぢやムいませんか、お貰ひなすつたつて、大層まあしなやかな方で、お嬢さんの大のお友達ですから、さうしておふくろ様も、お気に召してゐらつしやいましたもの…」
「いや先づ以て結婚の話は止しだ、何にも僕が心を知らない人より、僕は、僕のすきな人と、結婚する方がいいよ。すきな人を見付つけたら、みんなに知らして見て貰うのさ」
「まあ那麼事ばかし仰やつて…」
「ぢや兄さんすきな人あつて?」
「…いや…ないから、気長く探すんだよ」
「まあお気の長いことを…」
「気長だわねえ」
「気長いことを仰やいますこと!」
 此のときお衣は、鉄瓶の沸く音に耳をたてゝ、お茶をいれた。
「あゝ、さうだ、お母さんにも、花ちやんお供げな、お菓子の新らしいのがあつたねえ、お燈も小いさくなつたぢやないか」
「さうでムましたねえ」
「怎も気が付きませんで…」
 お衣親子は詫ぶるが如く言て、一度に立つた。お花は、茶棚の玻璃戸から、お菓子を出すのである。それぞれ仏壇に供へたとき、不二夫は両手を併せて、何事か深く母を拝して、祈るのであつた。
「おや雪ですよ兄さん!」
「まあ雪でムいますつて?」
「さうだらう、馬鹿に暖かいと思つてたんだ」
「初雪だなあ、かうと今日は幾日だ、ほー、まだ霜月の十日ぢやないか、随分早い」
と不二夫は指を折て、紫の煙を、蛇の輪なりに吹きたてた。
「兄さん!もう直お正月ねえ、今度は、母ちやんがゐらつしやらないから、淋しいわ」
「さうねえ、お母さんも、もう一つでも年をおとりなすつたらよかつたのに、それも花ちやんが騒ぐから、やかましいつて、遠くへ行つておしまいなすつたんだ」
「あらまあ…那様ことないわ」
「左様でムいますともねえ、今度はもう御兄妹きりで、それにしましてもせめておふくろ様のゐらつしやる時に、奥様でもお呼びなすつてゐらつしやいましたら、まだ甚麼におよろしかつたかも知れませんでしたに」
と乳母がいかにも残念らしく言つた
「また始まつたぞ、こりや、乳母も花ちやんも、みんな姉さんの犬だ、剣呑だなあ、お嫁さんよばないと言つてちや、噛みつかれるかも知れないねえ」
「姉さんの犬、お嫁さんの犬、まあひどいことよ、さうでせうよ、気長だもの、腰にお弁でもつて、僕のすきなお嫁さんつて言つて、山にでも行つたらいゝわ、よし子さんが笑うから…」
花子は不興げな顔をして見せた。
「大丈夫だよ探さなくつたつて…」
「おやもうそれぢや、お見付りなすつたんで?」
「いやまだ見付からないんだけれども…」と言た時
「郵便!」お衣は立つた。そのあとに
「誰からだらうか」
「誰からだかあてつこしませうか」
「さあ一寸わからないなあ、花ちやん先に言て御らん」
「いやだわ、兄さん直ぐ真似するから、さあ兄さん」
と言つてるうちに、二通の封じ文は、不二夫に渡たされた。
「誰れ?」
「姉さんと、とも達!」
「姉さんから何と言つて来て?」
封を切ると次の如く記されてある。
 明日は、主人かわたくしか、令の御意見伺いにまゐるべく候ふゆゑ、御熟考なしおきたまはるべし、母上様も、今年中にはと、おほせられ候ひしことも候へば、成るべく話だけなりとも、年内にとりきめたく、来春早々、式をあげて、御赴任も然るべきかと、叔母様はじめの御意見に候ふ…
「兄さん何つて言て来たの?」
「あのねえ、姉さんの内から、あす誰か来るつて…」
「たつたそれだけ?さうぢやないでせう」
「むゝ、またあの話しにくるのさ」
「其れではもう、今晩中にはおきめなすつておゝきなさらんけりや、またお話が流れになるやうでは…」
「いやいや何と言つても駄目だよ」
 花子は、乳母の親子を見て笑う。
 不二夫がとりあげた別封は、異様に彼を刺激した。
彼の面ては疑惑の雲に包まれた、洋燈に向つては美しく輝やいた。西山照子と記された文字は、照子の文字ではなかつた。彼が常に知る文字振ではあるが、それもたしかに男文字。しばしは封のまゝ見守つてゐたが、思ひついたらしい。封を切れば、二通の同封
 御不幸の後、まだ三月と経たぬうちより、あまりの事申し進じ候ふやうなれど到底西山氏より申上げ候ふ通り、本人はもとより神経衰弱の病床に臥し居り候うやうの始末、なほ、西山氏よりも、是非にとの事に候らへば、御事情の許す限りは、此の議然るべく、御承知下され度く、失礼ながら、照子への御状を拝読し候ふに、別に何の御意も候はねども、必らず御承引下さることと信じ、本人の希望並に、西山氏の書状とを同封のまゝ、差し出し候らへば、極々内密に、約婚の御返事待ち入り候ふ。御親戚へは御意次第、当方より親族のもの早速伺はせ申すべく、校内に於ては、種々議論も候らふべけれども、その辺に就ては決して御配慮に及ばず候…
読み行くすぢの乱れ乱れて、不二夫はたゞ上気せし面もち、よみ終へはせしものゝ、もはや別紙を開らく勇気はなかつた。
 かくて彼は床に入つた。
 乱るゝ胸は高波のして、意識の流れは暫くも止まらない。照子が病床はまさに写真のやうに、不二夫が眼の前に影となり、或は消え或いはあらはれ、やがてはうつる昔しの思ひ出。
 さてはまた、とし子の姿、よし子が面影!職員の嘲笑はありありと鼓膜をうつて去り、母はやさしくなだめもし、親族は固くとつて動ない。
 粉然として乱れ狂ふ血潮のめぐりに、兼てより病める心臓は、不規則な鼓動となり、熱度は昇高して、遂に翌日は病床に現なき境におちた。
 つどい来る親族の看護に、平静に復した三日目には、彼の枕べには、幾久しくの文字さへ読まれるのであつた。

(をはり)


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