女教師


東京 宮崎雪洲



東京府とは名のみの真の田舎、昔は埼玉県であつたとの事、此地の小学校に赴任する前、「彼地は風儀が非常に悪いからして心してよ」と一親友に囁かれ、戒しめられたのであつた。それで初の中は何か蛇でも出はしないかと思はれて、恐る恐る葦原を歩む心地であつた。が月日のたつのは早い者で、もう二度も春の花、秋の月を繰り返して見たのである。妾は十七の歳までは何事もなく平和に生ひ立ち、浮世の荒い浪風にも逢はずに育つて来た身であつたのであるが、懐しい父や母、親しい弟等の側を離れて独り異郷にさびしい月日を過すのであるから、幾度か人生の悲しい思ひに行きなやんで人無き折には泣いた事も一度や二度ではないのであつた。風儀の乱れて居ることは兼々聞いて覚悟はして居つたものゝ、其の実際に逢つては驚かざるを得なかつた。然も同じ渦中に巻き込まれそうになつて、苦慮した事も少なくはなかつた。同窓の友で、内部は兎も角、立派な建築広壮な学校に奉職して居る一人が、妾を見下した事もあつた、妾を冷評した事もあつた、其折々妾の胸は、いかに浪立つたであろふ、否口惜しく胸裂くる思をしたのであつた。
 日曜は、程遠からぬ恋しき我が家を訪れて、懐かしい父母の膝下で、親しく弟と話をして、一夜を仙郷と明すことの如何に楽しかつた事であろうよ。
 月曜の朝、此の離れ難なき我が家を後にする時、母は門口まで見送り、来学期よりは我が家の近くに赴任との御言葉を賜はるのが常であつた。其度毎に妾の決心は、歩一歩に高まり遂には郡視学に嘆願しようかと思ふのであつた。
 妾は云ふ迄もなく女である、然も未立の、世故に通ぜぬ、か弱い身であるのである、従つて、度々の障害!!濡衣!!冷評!!卑下!!に此の小さな胸の張り裂くる程思いなやんだ事は、幾そ度であつたろふ、其都度此の地が厭はしくなりまさるのであつた、嗚呼妾は此の地の風儀悪く乱れて居ることは承知であつた、妾は非常の覚悟と決心とを持つて来たのであつた。然し如何様な決心!!覚悟を持つて居つても、浦若い此の身の事なしに過されやう筈もなく、口さがなき村人の噂の槍玉にあげらるゝことを避けることが出来なかつた、彼等は妾が男教師などゝ教育上の対話をすると、直ぐ耳を曲げて聞き。目を光らして見るのである、嗚呼思へば!!顧れば。嗚呼妾はかくても猶此の様な箱詰の中にいやな年月を経なければならんのか、なぜこんな土地に心棒し続けて居るのであろうか。嗚呼校長の君!!嗚呼我が教へ子よ
 妾のまごころは、活眼なる校長の君、天真なる我が教へ子を置いて、外に知る人もなし、妾は男の中の女一人として、校長の君が、特別なる庇護を与へらるゝ御情にほだされ、父とも兄とも慕はれて、心ならずも日を送るのである、否、妾を姉とも師とも睦び慕ふ教へ子の、可憐さ、無邪気さに慰さめられ、思ひ切つて転校するの勇気が出来ぬのであつた。かくて妾は親しき友にも卑下され、村人には冷評され、一進一退有邪無邪の中に二年あまりの悲しき月日を心ならずも過したのは事実である。
 回顧すれば、此の学校に奉職した初めは妾の書生気質少しも変らないのであつた、教師と云ふ品位がどうしても備はらなかつた、所が、此の可憐なる教へ子、天真なる児童の為めに、却つて己が研磨され、自然に教師の品位も出来、思想も変化して来たのである、妾の恩人は確かに教へ子である、妾の慰籍者は真に彼等である、かくて妾は、此の教へ子とともに慰籍し研磨して進んで行くつもりであつたのである。児童も亦妾の真意を酌みて、何時も楽しく学び面白く遊そんで呉れたのであつた。嗚呼教ふべく導くべき妾が、却つて教へられ導かれつゝ、過しゝ此の年月、回顧ば、夢幻の様である。
 先頃も我が家に帰りし折、母の訓へに、女の身として、独身下宿して居る等は行末の為めに悪い、内の都合もあることなればよく考へて、早く我が家の付近に転任せよとの事であつた、妾も亦此感想と希望とが始終胸に往来して居つたのではあつたが、何時も、「自己の職務」と比考して、少し位の心の苦しみも、身の不利益も、枉げて職務の為めと母の心尽を無にして居つたのである。「内の都合もあれば今年は是非に」と達ての親の勧告。妾とて我が家程恋しく楽しく平和な所は勿論ないのであるが、彼の教へ子を振り棄てることの悲しさ、つらさに、いざとなつては大に躊躇せざるを得ないのである。去年の夏であつた或る友が、
「あんな田舎に意張りくさつて居て…生意気な」
と余り親しき友でもないが、其言葉が今に思ひ出されて、口惜しい。勿論我が校は田舎の片隅にある、建築も規模も小さい、図書も器械も余りに少ないが、然し、校舎の広大が何の誇りになる、設備の完全なのが教育の名誉か、片腹痛い訳である、我がいとしの教へ子も、皆な同じ人の子である、天使の権化せる児童である。学業、徳行、彼のそれに増すともなどか劣りやはする、いでやいでや、妾の一生を捧げて、是等天使の如き教へ子を、猶一層丹心を込めて教養し、天晴天下に恥ぢざる第二の国民となさん哉。嗚呼されどされど妾の身は、此の小天地に居たゝまれないのである、今はどうしても此の教へ子を見捨て此の校を後にせねばならぬ境遇となつて居る。嗚呼親しき妹よ愛らしき弟よ。如何にせば、妾の身も立ち、彼等も平和な月日を送り得るであろふ。如何に嗚呼如何に。
 折しも午前八時!!「先生お早うございます」「先生お早う」と元気よく懐しく愛らしき声に迎えられ、何時か村にはいつたのである、妾は彼等の此の有様を見るにつけ、転任てふ悪魔!!この悪魔は退けられて、何時しか美しく優しの情の湧き出づるのであつた。此の爛漫たる天使、此の修飾の無き教へ子は、心から、今朝も平和の将来を夢みて、此の身の永住を願ふのであらふ。今までの人は、一年立つや立たざるに転任するを常とした此の校の、学期末には無邪気の児童の狭い小さい胸の中にも疑虞の念が浪立つのであらう、噫可憐の教へ子よ、妾も長く永く汝と共に学び、汝と共に遊ばん、父母の諭も友の嘲も物かは。
 かくて妾は、茲に三月を迎へた、平和なれよとの新学年を迎へんとしたのであるが、豈計らんや、夢に願ひし其の事の讐となり、妾の運命を定むべき、神の仕業は、今は早や妾に此の地を去れよと命ずるに至つた、どうしても此の校を去らねばならぬ窮境に臨んだのである。思ひ設けぬではなかつたが、いざとなつては、万感無量、今は唯だ、「転任させてよ」との願の文書く身となり終つたのである。其運命!!!其窮境!!!
 噫!!妾は女の身でありし!!如何に其の職に忠実に、熱心にても、終を全ふさせぬか弱き身であつた!!、今は早や万事休止である。悲しい事もつらかりしことも、単に昔の語り草として、日頃年頃慕ひし優しき教へ子、天真なる可憐の児童とも、遂に別るべき時機が到来したのである。彼等が此の事を聞きしならば如何…彼等が之を知りしならば!!噫!!思へば…懐へば…女は弱き者!!別かるゝ折には…噫!!
 願の文書く孤燈の下、友にはぐれし雁の一羽。何処を指してぞ鳴き渡るにや。(完)


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