僕が此度二週日の賜暇を無理に、帰省に費したのは、十年といふ長い歳月、雲水の身の、一回も古郷の地を踏み得なかつたので、久々の墓参を兼ねて昔の知己親戚をも、訪ねようとの考へで有つた、
村民知友の歓迎、思ひ懸けも無く盛大を極めて、そこそこ席も暖らないといふ有様!!それも一方から考へると其筈で、今こそ零落もしたれ昔は近村堀つての素封家、祖父か戸長を退いた後は父が更つて村長を務めた位で、兎に角、村民からは多大の欣慕と尊敬を。払はれて居たので有る。それに加へて未だ中学一人卒つた者も無く、洋服着て帽子被つた人には、誰れも頬冠を脱いで敬礼するといふ質朴極まる僕の村から、高等官と銘打つた僕を出した村民が殆んど、自己の誉れかの様に、一村の誇りとして、今日の久しぷり帰省の僕を迎へたのは、強ち異とするに足らない。
僕は実に比の名誉を担ひ、所謂錦を飾つて古郷に帰つたので有る。誰しも鼻が動いて、肩が怒らざるを得ないといふ時なんだ、而かも僕は新たに、大なる感慨の淵に、導かれたのは何故で有らふ?いつの間にか新築されて、見変へた様な村の学校前を通つた時そゞろ足を止めて昔恋いしき面影が忍ばれるので有つた。此から二二町南の森蔭、そこが僕の生れた家なんで有る、色こそ変らね見越の一本松、物悲げな其風情に昔の名残りを留て倉庫も母屋も跡方なく、広い屋敷や庭は何時か畑と耕されて、青々とした麦が早や二三寸。
父母の墓前に叩いて帰郷を告げた僕は、哀愁の情頻りに動いて熱き涙のはらはらと頬を伝はるので有つた。
僕は何故泣かねばならないのか?僕は真実唯女々しいのか?
涙の源泉を探る可く十年の、哀史を、繙かねばならぬ。前述べた如く、僕は、多くの人から、羨まれた資産家の一人息子、何不足も知らず、小学から中学へと進んだが、不幸、ふとした事より資財は俄に傾く家針は次第に左前といふ悲境の中に僕と母を残して、父は世を去つたので有つた。
詮方なく、学校は退学し其月から、枚長の周旋で村の小学校へ奉職して、愛らしい児女から『先生』『先生』と呼はれる身となつた、根が子供好きの僕故学校の白さに家の事など打ち忘れて人を驚かす熱心精励に二年計りを夢の如く遇したので有る。
悲運の裡に弄ばれた僕は、時々青雲の志動いて、種々の妄想に反動心を満足させんと思ふ事も度々で有つた。矢先き、朋友の誰れ彼れが順風に帆を孕まして各志す方向に勇進するのを見ては矢も楯もたまらず羨望の情幾度か抑へんして遂に、抑へ切れなかったので有る。僕の頭は此時もう声名誉の奴隷となつて了つたので有る、其年の夏休みを界に、便りなき一人の母を貧苦の中に残し三百の愛児に決別の涙を注いで出発した。
未来に一筋希望の光りを求めて、惨憺たる苦学の舞台に有ると有らうる困苦を嘗め尽した結果は、見事高等官の肩書を握つたが迄は良かつたが、国に残した二人の慈母は、既に世を去つて、そが喜びの顔を拝む事は出来なかつたので有る。
僕は、老母が晩年を養はず、最後の病床に待する事さへ得ず千載忘る可からざ6哀字を深く胸に刻んで二人取り残されたので有る。嗚呼児が今日の成功は地下の亡母が慰籍に値するで有らふか?よし喜びの声を聞いても僕は決して満足して居ることは出来ない、僕が一度此の「ハート」に受けた矢創は永劫治す可き時は無いので有る、心の平和と内心の愉快は到底望み得ないので有る!!
僕の眼は何故有形の栄誉以外何物をも映し得なかつたのであつたか?親愛なる村民の中、僕が此の哀愁極る裏面の涙を、読み得るものが有つたらふか??否??