教育小説濡れ衣

小田切金渓



『丁度去年の今頃でした。思ひ出すのも嫌の様ですが、罪亡しに話しませうか。』と、冷えきつた茶をぐつと干して、友に語り続けた。
『其頃も矢張、電車で通つてたんですがね。須田町で乗つて何でも五六町進んた所だつたでせう。渠の女も偶然乗り込んだんです。勿論僕も向も、知る訳は無かつたのですが、直ぐ僕の前にぶら下つたんで、まさか知らん顔もされんから、一寸席を片寄せて、お掛けなさいと言つたんです。すると嫣然として腰は掛けたが、お互に非常に窮屈なんだ。で成るべく廣く開けて遣らうとして、始めて気が付くと、あのむつくりと白い頼へ例の乱毛が二三本ちらちらして居るのが眼に付いた。袴は紫紺とでも言ふのかな、仲々配合が好かつたのさ。僕は一体誰でもさうかも知らんが、若い女を見ると何となく気恥かしくて、上気する様な心特になるのが癖てね。其時にも、其傍に、しかも堅く密接く様に坐つて居るのは実に堪えられん程恥かしくなつて、無意識に起つて革にぷら下つたのさ。勿論其後は見向くなんて言ふ勇気は無かつたんだ。で何峙電車を下りたかも気が付かない位でしたが,真文舎の前でひよいと振向くと、後から最前の女が来るぢやないか。はつと思つて真赤になつて大急に学校へ飛び込んだが、全くどう言ふ訳でとも自分には分らなかつた。』
『所が驚くぢやないか、其女が本山さ。校長が起つて一同に紹介した時にも、僕は目がくらんだ様に成つて,一眼見たきり、恥かしいとも恐ろしいとも付かず、胸は押し付けられる様で、失張り前と同じに、肥り肉な白い頬をぢろりと見たばかりでした。けれど可笑い者ですね。本山が愈々席に就くと叉見たく成つて、幾度か向を見たんですよ。』
 僕はどうして斯様な心持だつたか、今以て説明は出来ませんが何とも形容されない気になつて終つた……無論僕の学校には女教員が六人も居たけれど、本山一人に対して計りで外の女教員には何ともなかつた。而も本山には一寸お辞儀も出来悪い。其癖朝出勤しても、本山が来て居らぬと非常に不愉快でたまらぬ。稀に電車に乗り合せでもすると、例の胸が一杯に成つて冷汗が出るんです。何だか矛盾した様の訳だが是が事実でした。そんな風で、僕と本山とは二十日余も言葉も交はさなかつた所が、月末になつて統計表を作る時に、そら能く新任の入が間違ふ、出席の百分比例ね、あの男女の合計を、先生双方を其儘で加へて終つたのさ。そして校長の所へ出したものだから、直ぐ呼び付けられて、百人中百九十人も出席するなんて訳が有りますかつて、極め付けられたのさ。僕は校長の本山さんと言ふのか聞えた時に冷りとして、何だらうと書筺の上から眺めると、さう言ふ訳で先生弱り切つて、俯いてもじもじして居るのが見える。僕は気がはらはらして、何なるかと心配して居たが,やがて表を持て僕の所へ来たのさ。そして見て呉れつて頼むぢやないか。僕は何とも知らず身体が燥へて、碌々字も書けない様に成つてしまつたけれど其位の事は易い事なんだから、直に計算して渡して遣ると、非常に喜んだ様子だつた。実際本山さんとは其時始めて話をしたのさ。夫から後、何か分らぬ事があると、僕の所へ持つて来る様になつて、僕の心も段々平静になつて来た。併し恥かしいとも恐ろしいとも付かぬ一種特別の心は伸々披けなんた。どちらかと言ふと、本山と話をするのは成るべくは避けたいと思つた。けれど本山が他の人と親しく話をするのや、他の人に何か尋ねるのを見ると、何時も不快に堪へなかつた。僕の一番楽みなのは、僕の教室は連動場のすぐ傍に有つたから、本山が遊戯をする時、あの張のある、いヽ声で唱歌を謡ふのを聞く事でした。実際本山はいヽ声でしたね。大間君が小さきノラといふ名をつけたが、イブセンは斯様のをモデルに為たらうと僕はしみじみ感心したね。』
『其後二月三月と経つ中に、本山と物を言ふ度数も多くなり僕の心も次第に平静になつた。併し本山に対して気を置く事は少しも変らない。外の人になら,すらすらと話せる事でも本山には何となく話し悪い。言葉も自然に改まつて来る。其でも本山に用のあるのは、何となく心嬉しく、勇んで掛るんだが、いざとなると思ふ様に言へぬ。いやに改まつてしまふ。其為後であんな言方をするぢや無かつたと,幾度か後悔した事が有る。併し本山の方では僕の言ふ事を、気に掛けた様な風は一度もないので、無論安心はして居たが、僕にでも出来る仕事を他の人に頼むのを見ると、怒つては居ないかと心配したり、他の人と親しさうに語すのを聞くと、僕の悪ロを言ひはせぬかと、立聞したくてたまらなかつた。』
『本山は勿論美人と言ふ程ぢやない、身体はあの通り小さい方だし、それに人並優れて太つて居る、けれど色は白し眼ははつきりして、顔には一寸もゆるみがない、十人並といふよりは寧ろよい方だ、夫に前にも言つたが、声があの通り良く語尾にカの有る所など、中々人の心を惹く。僕はやヽ理想に近い方だと鑑定した。』
『僕は本山さんに対して同僚だと言ふ外何の関係もない。僕一人て本山さんに会ふのは、稀に電車で一寸乗り合せる位なものだつた。所が今年の春、さうさ五月だつたらう,一人で遊就館へ行つた。そしてあれを出て、靖国神社の裏手へ廻つて見た。彼所の庭は日比谷などと異つて、日本風なのが好で僕はよく彼所へ行くが、ベンチに休んで居ると、偶然本山さんが来た。で種々の話が出て、小一時間も共に談り合つた末分れた。遊就館で疲れ切つて居た故か、其話は非常に愉快に覚えたが,別れる時には何となく物足らぬ様に思つた。其後時々思ひ出して、何か言ひ残した感じはするが、と言つて思ひ出さない。も一度あゝいふ場合に遇つたらと思つたけれど遂今日の有様さ。』
『実際僕は正直に白状する。本山さんには是以上何の関係もない。僕は偽らず飾らず君に話したつもりである。夫を君邪推にも程があるぢやないか。何か両人の間に不潔な関係でも有る様に、こんな所に左遷するとは、僕は自分の事よりも本山さんに対して非常に気の毒に思ふ。』
 友は語り終りて遠き夢を追ふが如く、暫は頭を得上げなんだ。』(完)


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