いつしか岸へ著いた、
岸にはみどりの小松が思白く並んで、其間に海士の苫屋の屋根の点々として見えるのも一段の趣を添へて居るが、吹く風は腥い、血のにほひと脂のにほひと、骨の腐つたにほひとが入り交つて、惨憺たる刺激を与へる。それが弱い私の官能をそゝるので、胸が悪くてならぬ。私は三日もこんな所には生存が出来ぬと思つた。
村の学校をたづねたらばわかるだらうと、一色の黒い、中世紀の骨相を備へた漁夫に教へられて、小さな芥川に添ふた道を暫時のぼると、○○小学校と門標の新らしい校舎の前へ出た
「西村君は居ますか」
無遠慮にきいて見る。年の若い教員が出て、
「ハイ、今授業中です。西村さんは英語の方を一時間余分に受持つて居られますから。」
丁寧に答へて時計を見。
「もう済みますから、まあおあがりなさい。」
と云ふ。案内されて私は新らしく建つた職員室へ這入つた。校長は留主と見える。四五人の教員がコツコツと何か書いて居る。十五分程持つて居ると鈴が鳴つて、リーダーの一を抱へた、西村君は私の前に立つた。
「やあ糸崎君!」
「ご無沙汰しました…」
「まあ久濶…」
刹那に私は心に一種の強い寂寥を感じた。俊才西村哲治ー境遇の変化は恐ろしいものである。色はくろく声は太くなつてどう見ても一個の村夫子である。
「実にしばらくでしたなあーどうです学校の方は、卒業ですかー」
「イゝ工此春まで」
私は簡単に答へて不意に
「其後失礼して居たが、如何です母上はー」
と問ふ。西村君はにこにこして、
「有りがとう、お蔭で健康になりまして」
私はどうしてもこれが昔の西村哲治君であらうとは思はれなかつた。
「今日は是非僕の家でとまりたまへ。どうせこんな浜辺の家だ。不自由だろうが、また穢い中に掬すべき趣も有るからーそして今夜は月がよいから海岸を散歩しながら語らう。」
恁ふ云つて、西村君は私を促し職員室を出た。私は西村君につゞいて同じく外へ出た。校門を離れると西側は青田で有る日は余程西へ傾いて、まぶしく稲の葉を照らす。遥に波の遠音がひびいて、腥い風がまたしきりに吹いて来る。
「君、くさいね」
私は云ひながらベツベツと地上に唾を吐きつけた。
「鰯の時になると毎年この通りさ。鰯をしめた脂がにほふんだ。」
「兎に角たまらないね」
私は不図何年かの以前に、彼の寄宿合の花園で、落日の大景を讃美した西村君を忍んで、並んで居る西村君をチラと覗つた。あヽ青春の面影はない。天才的の音容は無い。何か語らうとして私は黙つてしまつた。
「もう五年になるね」
西村君は立ち止つて指を折る。
「僕もとうとう埋れてしまつた。君遂に僕のカは自然の或者に抗することは出来なかつた。供は此の土地を墓場とするやうに此世に生を享けたのだ」
西村君の横顔はさびしい落日の紅にいろどられた。
悲惨ー私は痛はしい思ひになやみながら無言に道を歩いた